上杉 重能
生没年 ?〜1349年
父は観修寺別当宮津入道道兎、母は加賀局。
子供に能憲(実父上杉憲顕)、(実父上杉重行)顕能
実父は勧修寺別当宮津入道道兎、上杉氏が出自とする勧修寺氏である。上杉憲房の養子 宅間上杉氏の祖
引付一番頭人 伊豆守護など
元弘三年(一三三三年)足利尊氏に従い六波羅攻めに参加、「梅松論」では後醍醐天皇より北
条高時討伐の綸旨を尊氏に示し挙兵を促したといわれる。建武政権後は尊氏のもとで伊豆守、武蔵守護代をつとめ建武二年(一三三五年)竹ノ下の戦いにおいて出家しようとした尊氏を諫めた。以後、足利直義の側近として活躍する。やがて高 師直らと対立し直義に師直を退けることをすすめたが師直に謀られ畠山直宗とともに越前に配流貞和五/正平四(一三四九年)年12月20日(21・23・24日説もある)越前守護代八木光勝に殺害される。
上杉 顕能
生没年 ?
父は上杉重行、母は不明。
観応の擾乱では足利直義方に属す。観応2年6月備後守護に就くが8月岩松頼宥が備後守護となり、以後の消息は不明
備後守護 観応二年(一三五一年)六月 - 観応二年(一三五一年)八月
宅間上杉家
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