1252年(建長4年)〜1368年(応安元年)
INDEX 年表其の一(1252年〜1368年) 年表其の二
年代 | 出来事 |
---|---|
一二五二年 (建長四年) |
上杉重房(藤原 清房の子)、宗尊親王とともに鎌倉へ下る この時 丹波国何鹿郡上杉荘を与えられ上杉姓を称した |
一三〇五年 | 足利貞氏に嫁いだ清子(上杉 頼重の子)が足利尊氏を生む |
一三〇六年 (徳治元年) |
尊氏に次いで足利直義誕生、同年 上杉憲顕(上杉 憲房の長子)誕生 |
一三〇八年 | 上杉憲藤(憲房の子、憲顕の弟)誕生?(一三一八年説がある) |
一三二一年 (元亨元年) |
上杉朝定(上杉 重顕の子)誕生 |
一三二四年 (元亨四年) |
9月 正中の変 |
一三三一年 (元弘元/元徳三年) |
4月 後醍醐天皇の寵臣吉田定房、日野俊基らの謀反計画を六波羅に報じる 5月 日野俊基、文観、円観等を捕らえる(元弘の変) |
一三三二年 (元弘二/正慶元年) |
8月 後醍醐天皇、京都から逃走 |
一三三三年 (元弘三/正慶二年) |
1月 二階堂道薀、軍を率いて入京 閏2月 後醍醐天皇密かに隠岐を出て出雲に移る 3月 菊池合戦 上杉憲房(頼重の子 高氏の伯父)、足利 尊氏に鎌倉幕府に対し反旗を翻すことを勧め、細川 和氏、上杉 重能(観修寺道宏の子 憲房の養子)ら後醍醐天皇より北条高時討伐の綸旨を足利 尊氏に示し挙兵を促す。「梅松論より」 5月 高氏、赤松 則村らと共に六波羅探題を攻落し、北条仲時自刃 22日(鎌倉幕府陥落)新田 義貞が鎌倉を陥落し、北条 高時自刃 25日 鎮西探題陥落(博多合戦) 6月 後醍醐天皇、京に遷幸する 8月 足利 高氏、従三位に叙せられ武蔵守となる。高氏から尊氏に改め鎮守将軍となる 10月 後醍醐天皇は記録所、雑訴決断所、武者所を設置 上杉憲房、恩賞として伊豆国奈古屋郷 地頭職をあたえられる。建武政権にて雑訴決断所の二番(東山道)に配属 北畠顕家、鎮守府将軍府へ下向 12月 足利 直義は成良親王を伴い鎌倉に入る。 上杉能憲誕生 |
一三三四年 (建武元年) |
上杉憲房、雑訴決断所の東山道から東海道に配属変更 北畠 顕家(北畠 親房の子)、義良親王を伴い奥州へ向かう。 |
一三三五年 (建武二年) |
上杉憲房、上野守護に補任 上杉 憲方誕生 7月 北条 時行ら諏訪 頼重の支援を受け挙兵し、鎌倉にいる足利 直義を撃破する。一時、鎌倉を占拠(中先代の乱)足利 尊氏は後醍醐天皇に自らを征夷大将軍にと願出たが許可されず、尊氏は征東大将軍と名乗り鎌倉へ下る。足利 直義、護良親王を殺害し、成良親王を奉じて西走 8月 足利氏 占拠された鎌倉を奪回、乱を鎮める 11月 直義は新田 義貞誅伐の軍勢催促状を全国の武士に発し尊氏は義貞誅伐を、上奏する 後醍醐天皇は尊氏追討の勅命を下す。新田 義貞総大将として尊良親王を奉じて鎌倉へ下る 12月 直義、手越河原の戦いで破れる 北畠 顕家、義良親王らは尊氏追討のため陸奥を出発 箱根竹ノ下の戦いで義貞を破り、新田軍を追撃するため西上する |
一三三六年 (建武三年/延元元年) |
正月 足利 尊氏、京都に入るが北畠 顕家、奥州より到着した北畠軍に破れ丹波へ退く(建武の乱) 上杉憲房自刃(討死とも) 2月 尊氏、兵庫で敗退し九州へ向かう 3月 尊氏、筑前多々良浜で菊池 武敏を破る(筑前多々良浜の戦い) 4月 足利氏、博多を出発し京へ向かう 5月 備後の鞆で海路を尊氏、陸を足利 直義に分かれ湊川で新田、楠木軍を破る。(摂津湊川の戦い) 楠木 正成敗死、後醍醐天皇は比叡山へ退く 6月 尊氏は光厳上皇を奉じて入京する。その弟、豊仁親王(光明天皇)を擁立した。 8月光明天皇践祚(北朝成立) 10月 清子、粉河寺に戸帳を寄付 後醍醐天皇、尊氏と和睦し京に還る 11月「建武式目」を制定 12月 後醍醐天皇、大和吉野に拠る(南朝成立) |
一三三七年 (建武四年/延元二) |
3月 金ヶ崎城陥落 顕家、奥州から出発 清子、領地を寄進 上杉朝定、丹後守護職に任命される 12月 足利 義詮は北畠軍に破れ鎌倉を逃げる |
一三三八年 (建武五、暦応元年/延元三) |
3月 上杉憲藤 討死 5月 高師直、北畠 顕家と和泉堺浦・石津で戦い勝利する(北畠顕家 敗死) 新田 義貞は斯波 高経の越前国府を攻略 6月 上杉憲顕、関東執事に就く 7月 藤島城攻撃に応援するために向かう途中、矢に当たり新田義貞 討死 8月 足利 尊氏征夷大将軍 9月 北畠 親房、宗良・義良親王ら伊勢より東国へ向かうが難破して親房は常陸に漂着 12月 上杉憲顕、足利直義から上洛命令を受ける |
一三四〇年 | |
一三四一年 (暦応四/興国元) |
宗良親王が越後に入る。新田義宗も挙兵、関東執事として義詮を補佐していた上杉憲顕、越後 府中に入り新田氏と戦う 九月 越後の小国・河内氏ら蜂起、上杉憲顕 黒川茂実らを率いて小国・河内氏討伐に向かう 十月 河内氏の本拠藤島城が落城する。宗良親王、越中へ逃げる 憲顕、三年ほど越後に留まり南朝方の抵抗を抑える 足利 尊氏、天竜寺船を元に派遣 |
一三四四年 |
上杉憲顕は鎌倉へ帰り重臣の長尾景忠が守護代として残る 10月 憲顕、越後の守護領の不足分として上田荘内を幕府から与えられる。 |
一三四六年 (貞和二/正平元年) |
上杉重能、伊豆守護職に任命 |
一三四七年 (貞和三/正平二年) |
12月 26日高師直・師泰、河内南軍攻略のため京都を発する |
一三四八年 (貞和四/正平三年) |
正月 河内四条畷の戦い(楠正行戦死) 24日大和吉野陥落、後村上天皇は紀伊に移る 2月 吉野を落とした高師直・師泰の軍勢京都に凱旋 |
一三四九年 (貞和五/正平四年) |
この頃足利勢力の中で内部分裂が起きはじめる 8月足利直義と高 師直の対立表面化、直義、師直の襲撃に足利 尊氏邸へ逃込む 師直、上杉重能らの身柄引渡しを要求する 9月 尊氏、足利直冬を攻撃し直冬は九州へ逃げる 10月 鎌倉にいた足利義詮、入京する。代わりに弟の足利基氏が鎌倉に下向 12月 上杉重能、越前守護代八木光勝に殺害 |
一三五十年 (観応元/正平五) |
足利 直義、足利尊氏と対立し京都出て大和に赴く、尊氏は高 師直を率いて足利 直冬追討に出京 11月 直冬追討のため出京した足利軍、備前福岡に到着 上杉能憲、常陸国信太荘にて挙兵、上杉憲顕も上野からこれに合流し鎌倉を攻める 相模の湯山で基氏の近臣が師冬に叛き、基氏の身柄を奪い憲顕の軍に投ずる 12月 直義、南朝に帰順 |
一三五一年 (観応二/正平六) |
1月 桃井 直常京で足利尊氏・義詮らと戦う 高 師冬、信濃の諏訪氏に攻められ自害上杉憲顕?(か憲将)武蔵守護に任命 2月 尊氏と足利 直義和睦する 高 一族、上杉能憲に討たれる 7月 直義 出奔 8月 直義、義詮と不和になり北陸へ逃れる 憲顕、居多神社に荒蒔保(上越市 清里区新牧)に寄進 10月 尊氏・義詮、南朝へ帰順 11月 直義鎌倉に到着、足利尊氏は駿河国薩土垂山に陣を布く 12月 上杉憲顕 駿河国薩土垂山での戦いに敗れると信濃国へ逃走、足利尊氏は憲顕の守護職を取上げ宇都宮氏綱を新たに越後守護職に任命し、その重臣 芳賀高貞・高家兄弟を守護代とし国内を治める |
一三五二年 (文和元/正平七) |
1月 足利 尊氏と直義再び和睦 義詮近江国に脱出 足利直義死去 閏2月 新田義宗、義興 脇屋義治とともに上野で宗良親王は信濃と上野国との国境の碓水峠で挙兵する。宗良親王は武蔵国に進撃し新田氏と合流、金井原(埼玉県 所沢市)の合戦を皮切りに笛吹峠での戦いに憲顕が新田側に参戦 18日 新田氏、鎌倉を占拠 8月 義詮、後光厳天皇を立てる 11月 足利 直冬、南朝に帰順 |
一三五五年 (文和四年/正平一〇年) |
3月 上杉憲将と宇佐美一族らは越後北朝勢を討伐するために顕法寺城で挙兵、北朝の風間右亮長頼は村山大膳介隆直らと兵を率いて顕法寺城を攻略、敗れた憲将は六角峰城に後退したが支えきれず柿崎城に逃込む 北・南朝軍京都に戦う。尊氏、義詮京都を奪回する 4月 柿崎城落城 |
一三五八年 (延文三年/正平一三年) |
2月 足利直義に従二位 贈られる 4月 足利尊氏死去 6月 足利尊氏に左大臣従一位贈られる |
一三五九年 (延文四年) |
憲顕が、三宝寺城(新潟県糸魚川市)に挙兵、刈羽の東城寺(柏崎市東条か)に進む 10月畠山国清が東国の大将として上洛する |
一三六〇年 (延文五年) |
赤田城を攻略し憲顕は頚城、刈羽を中心に勢力を広める |
一三六三年 (貞治二/正平一八年) |
3月 上杉憲顕、関東執事に再任 |
一三六八年 (応安元/正平二三年) |
3月 武蔵平一揆 7月 上杉憲顕、武蔵守護に任命 上杉憲顕、死去(63)上杉能憲が武蔵守護に任命され上杉朝房とともに関東管領に任じられ両管領と称される 12月 足利 義満室町三代将軍となる |