1333年、北条高時一族の自害により鎌倉幕府が滅亡。京都へ帰還した後醍醐天皇は建武親政を発足させるが、自害から逃れた旧幕府諸氏らは幕府再興の機会をうかがい鎌倉に潜んでいた。不穏にある鎌倉をどのように統治するのか建武親政の課題のひとつであった。このように関東統治を目的に足利直義が成良親王を奉じて鎌倉へ下向したのが、鎌倉府の前身である鎌倉将軍府であった。
1335年7月に信濃国で諏訪頼重らが北条高時の遺児 北条時行を擁立して鎌倉を陥落させる事件(中先代の乱)が起きる。将軍府にいた直義は鎌倉を放棄、成良親王は京都に戻され鎌倉将軍府は分解され、北条氏により占拠され鎌倉だが足利尊氏により乱は鎮められるが、尊氏は建武政権に叛旗を翻すと鎌倉には子の千寿王(後の足利義詮)が残り、彼を主とした地方機関が形成された。これが、鎌倉府の始まりである。1349年に弟の足利基氏が入替わりに鎌倉公方として関東を治め以来、基氏の子孫が四代にわたり関東公方を務めた。
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支配地域と概要
鎌倉府の管轄国は関東分国と呼ばれ関東八カ国と伊豆・甲斐を含む十カ国が管轄国、後に1391年(明徳2年)陸奥・出羽も管轄になる。
鎌倉府の役割
重要な政務の決定権は幕府が握り、幕府から出される施行状(管領が、将軍の意をあて名の人に取り次ぐために出した文書)を受けた鎌倉府は管轄国の守護に対し伝達する役割を持っている。その他に関東分国内限定で充行権(武将が家臣に土地・所職などを与える権利)を与えた。 鎌倉へ派遣された基氏の子孫が関東公方(鎌倉府の主を指し、初期には関東管領とも記し鎌倉公方・鎌倉御所等称された)を継ぎ公方を補佐する役割の関東管領(初めは関東執事と呼ばれ、後に関東管領と呼ばれる)は上杉氏が独占した。
関東管領と守護国の補任関係
上杉氏が独占をした関東管領職であるが管領職についた時点で領国の守護となっている人物が多い。上杉能憲の場合、上杉憲顕没後すぐに上野国守護に能憲が継いだと見られる。そして応安2年2月17日「空華日用工夫略集」で義堂周信は「管領上杉兵部」と記している。
鎌倉府の子孫
足利義詮が鎌倉府の主となっていたが、1349年に弟の足利基氏が代わりに鎌倉公方として入り、以後鎌倉公方は基氏の子孫が受継いだ。(義詮を初代鎌倉公方とはせず、足利基氏を初代鎌倉公方と見るのが一般的)二代鎌倉公方の足利氏満が治めていた時期には、鎌倉府が幕府の体制に順ずる形に実力をつけ公方自身も、幕府から独立する構えを見せ始め1380年小山氏の乱をきっかけに陸奥・出羽の両国を管轄する事を実現した。
三代鎌倉公方足利満兼(基氏の孫、氏満の子)は弟の満直、満貞を派遣した。篠川(福島県群山市)に下向した満直は篠川御所、稲村(福島県須賀川市)に下向した満貞は稲村御所と名乗り陸奥・出羽の反鎌倉府勢力に対抗する役割を果たすが、後に1416年上杉禅秀が足利満隆と組み四代鎌倉公方足利持氏と関東管領の上杉憲基を襲撃した事件(上杉禅秀の乱)で禅秀の呼びかけに応じた同心者の中に篠川御所の足利満直がいた、四代関東公方足利持氏とは印悪な仲であったと思われる。(田辺久子「関東公方足利四代」)
上杉禅秀の乱は越後守護の上杉房方の助力により鎌倉公方の足利持氏は乱を鎮めた。しかしこの足利持氏という人物、四代将軍足利義持の猶子になる事を自ら願い出るなど自分が将軍になる事に強い願望を抱いていた。
1425年に五代将軍足利義量が死去、前将軍であった足利義持は後継を定めないまま1428年に亡くなる。将軍の後継選びは、管領畠山満家の発案により、くじ引きで将軍を決め足利義教が六代将軍職を相続することになるが、義教の将軍就任に不満を持った持氏は義教に反抗的な態度を示し1429年元号が永享に改められた時に持氏のいる鎌倉では改元を無視し正長を使い続けた事や嫡子の賢王丸が元服の際に、あえて持氏は「義」を用いて義氏と名乗らせる(これまで関東公方は将軍から将軍の通字「義」以外の字を与えられる)など度々、幕府に反抗的な態度を示していた。
この時、関東管領であった上杉憲実は鎌倉府と室町幕府の融和を望み持氏を何度も諫めていたが、持氏が憲実を疎んじる様になり二人の間には隔たりが出来きた。この頃から持氏が憲実を討つ噂があがり憲実は鎌倉を出奔して上野国まで下り、持氏の憲実討伐に乗じて足利義教は上杉側に組し関東諸勢力に持氏討伐を呼びかけた。(永享の乱)相次ぐ味方の寝返りに持氏側は敗北、持氏は鎌倉に幽閉され永安寺にて自害を遂げた。
その後、関東公方の席は足利成氏が就任するまでは10数年の間、空席になった。足利成氏が関東公方として就きましたがすでに幕府は上杉氏の通して関東統治を行う形を見せており公方による支配権は無くなっていた。
助命を求めたものの結果的に自害に追い込んだ上杉憲実の子でもあり、関東管領の上杉憲忠を謀殺し享徳の乱を起こした。憲忠謀殺を皮切りに上杉方と対立を起こした成氏は、鎌倉を出て各地を転戦し下総国古河を本拠に古河公方と名乗った。父、持氏と同じく幕府に反抗を示す成氏を関東公方として認めない幕府は、将軍である足利義政の庶兄である足利 政知を新たな公方として決め鎌倉へ下向しますが上杉氏の内紛、すでに鎌倉は今川氏の勢力下にあり政知の鎌倉入りは実現せず伊豆国堀越に留まったので堀越公方と名乗った。1480年に成氏は上杉房定を仲介として幕府に和睦を申し入れ、成氏は関東9カ国を支配する事を認め政知は伊豆国が与えられ和睦は成立し成氏は公方として復活を遂げるが、小田原北条氏が活躍すると次第に勢力は衰え1582年足利義氏の死をもって関東公方は消滅した。
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