上杉 憲房
生没年 ?〜1336年
父は上杉 頼重、母は不明。
子供に憲顕、憲藤、(実父 観修寺道宏)重能
号は椙谷
兵庫頭、永嘉門院蔵人、上野守護
一三三三年の足利尊氏の反幕行為は「難太平記」によると憲房の勧めによるものであったと記してある。鎌倉幕府滅亡後、恩賞として伊豆国奈古屋郷(静岡県伊豆の国市韮山町奈古谷)地頭職を尊氏から与えられる。
建武政権下では足利一門の代表として雑訴決断所の一員となる。建武二年(一三三五年)尊氏が政権下を離脱するとこれに従い新田氏をおさえるため新田氏の本拠である上野国の守護職に補任された。
建武三/延元元年(一三三六年)尊氏に従軍し京に入り27日北畠顕家・新田義貞らと四条川原に戦い深手を負い自刃、または討死とも伝えられる。
上杉 能憲
生没年 1333年〜1378年
父は上杉憲顕、母は木戸氏娘。
子供に(実父上杉憲方)憲孝
憲顕の三男、兵部少輔
一三四九年(貞和五/正平四年)12月重能が高 師直の計略によって殺害されると実父 憲顕を頼り、一三五〇年(観応元/正平五)年 常陸国信太荘(茨城県稲敷市江戸崎町辺)で挙兵し高 師冬を攻め自刃に追い込んだ。足利尊氏と直義の和が成り上洛する尊氏に従った高 師直ら高一族を一三五一年(観応二/正平六)2月 討つ。その後、尊氏から流罪に処せられたがやがて許されることになり一三六八年(応安元/正平二三年)、憲顕に代わり上杉朝房とともに関東管領となる。上野、武蔵、伊豆守護にも任じた。一三七八年(永和四/天授四年)4月17日没46歳
関東管領 応安元年(1368年) ‐ 永和四年(1378年)
上野守護 応安元年(1368年) ‐ ?
武蔵守護 応安元年(1368年) ‐ 永和二年(1376年)
伊豆守護 応安二年(1369年) ‐ 永和二年(1376年)
上杉 憲春
生没年 ?〜1379年
父は上杉憲顕、母は木戸氏娘。
左近将監、刑部大輔
応安元/正平二三年(一三六八年)の平一揆に加わる。翌7月 上野に挙兵した新田義宗 義治を討つため能憲とともに千葉・宇都宮・小山・結城らの諸将を率いて出陣した。1377年、関東管領を務め、1378年には兄 能憲の死後、跡を継ぎ武蔵守護を任じた。
1379年に将軍足利義満に代わり将軍になろうとした関東公方足利氏満は、土岐頼康討伐に乗じて京に攻め入ろうと上杉憲方を大将とし関東軍を上洛させようとする。憲春はこれを抑えようとしたが聞入られず3月8日諫書を残し自殺した。
法名 大沢院高源道珍
武蔵守護 永和四年(1378年) ‐ 康暦元年(1379年)
上野守護 応安四年(1371年) ‐ 康暦元年(1379年)
上杉 憲方
生没年 1335年〜1394年
父は上杉憲顕、母は木戸氏娘。
子供に憲定、房方(越後上杉憲栄養子)、憲重、憲孝(上杉能憲養子)
左京亮 安房守 上野、武蔵、伊豆守護
憲方の代で山内上杉氏の家督分を確立させた。1378年、能憲1379年、憲春の死により家督を継ぐ。
関東管領に任じられた時期
(「上杉家文書」では)1379年3月に兄である憲春が諌死を遂げ、翌4月15日に足利義満は上杉憲方を関東管領職に仰せつける旨を関東公方の足利氏満に伝えている。(「生田本鎌倉大日記」では)4月13日には憲方が了承したと伝えられている。
土岐頼康討伐では関東の大将として伊豆の三島に出陣した。1380年 小山義政の反乱では義政を自害に追い込み1386年には、義政の子犬若丸が叛くと犬若丸を追放する。一度は関東管領職を辞するが再任され、明徳3年(1392年)4月 病気のため再び職を辞し、憲孝が継ぐことになった。
伊豆守護 永和二年(1376年)‐応永元年(1394年)
武蔵守護 康暦元年(1379年)‐応永元年(1394年)
関東管領 康暦元年(1379年)‐永徳二年(1382年)・正月
関東管領(再任) 永徳二年(1382年)6月‐明徳三年(1392年)
参考図書
田辺久子「上杉憲実」
上杉 憲定
生没年 1375年〜1412年
父は上杉憲方、母は不明。
子供に憲基、女子
父 憲方が亡くなると応永二年(1395年)7月 足利義満の下文を得て家を嗣き伊豆・上野両国の守護となった。応永六年(1399年)応永の乱では、大内義弘の誘いに応じようとした鎌倉公方 足利満兼を諫め 義弘と通謀の廉によって今川了俊を帰順させるなど幕府と鎌倉府の融和に努めた。応永一二年(1405年)上杉朝宗のあとをうけ関東管領職に就き足利満兼 持氏を補佐、応永一八年(1411年)に職を退き応永一九年(1412年)12月 没
伊豆守護 応永二年(1395年) ‐ 応永一九年(1412年)
関東管領 応永一二年(1405年) ‐ 応永一八年(1411年)
上杉 憲基
生没年 1392年〜1418年
父は上杉憲定、母は不明。
子供に憲実(実父は越後上杉家房方)
右京亮、安房守、左介殿と号す 伊豆・上野守護
応永二二年(一四一五年)5月関東公方 足利持氏が常陸の越幡六郎の所領を没収したところ、これを不満とした上杉氏憲が関東管領を辞すると代わりとして上杉憲基が関東管領となった。応永二三年(一四一六年)10月 氏憲は持氏を廃し、憲基を退けようと謀叛を起こす。夜襲を受けた持氏は駿河の瀬名に逃れたが憲基は伊豆の国清寺に入ったところ再び襲われ越後に逃れた。越後で上杉房方の救援を受け兵を集めた憲基は一四一七年、幕府の追討軍と共に鎌倉を囲み氏憲を自害させ関東管領に復帰する。同年4月関東管領を辞したが6月、再び関東管領を任じる。
憲基の後継者
越後上杉家の憲実を養子にした経緯について「篠田系図」では憲基は扇谷殿の子を養子にと所望下が一族・被官がこれを望まず越後上杉家から憲実を迎えたという。これを参考にすれば憲実を養子に迎えたのは憲基生前の事に決められたと考えられる。
応永二五年(一四一八年)27歳没する
法名 宗徳院心元海印
関東管領 一四一五年 - 一四一七年
上野守護 応永二三年(一四一六年) - 応永二五年(一四一八年)
伊豆守護 応永二四(一四一七年) - 応永二五年(一四一八年)
関東管領 一四一七年(一四一七年) - 応永二五年(一四一八年)
参考図書 田辺久子「上杉憲実」
山内上杉家
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