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上杉姓を称する

 上杉氏は藤原鎌足(藤原北家勧修寺流)を出自とした家であった。父である観修寺流藤原氏一族の清房は配流中の後鳥羽上皇に近侍し、重房は式乾門利子内親王(後高倉院の皇女)の院司であった。上杉姓の由来は、重房が宗尊親王と供に鎌倉へ下向し供奉した功により丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)を賜り上杉姓を称したと伝えられ重房と子の頼重は清和源氏義家の孫義康を祖とする足利氏に仕え、数多くの庶流は室町時代に関東で重きをなした。

藤原鎌足〜高藤の系図

藤原高藤〜上杉重房の系図

上杉氏と足利氏の婚姻関係
鎌倉へと下向した重房が足利氏との婚姻関係をもつきっかけは謎であるが、足利氏との婚姻関係の始まりは重房の娘が足利頼氏に嫁いだのから始まる。頼氏の子、足利家時の母は家女房上杉蔵人重房の娘であると「尊卑文脈」で記してある。
↓は足利氏との主な婚姻関係

主な一族

  • 八条上杉家

  •  扇谷上杉氏である朝顕から始まり、越後上杉(越後守護、山浦、上条など)や関東上杉(山内、犬懸など)とは別に京都の壬生を拠点に活動をしていた八条上杉氏がいました。「京ハ惣領、関東ハ庶子」(「蔗軒日録」文明18年9月23日条)とあることから八条上杉氏が、数多くある上杉氏の中でも八条上杉氏が嫡流だと伝えられます。八条上杉の当主は官途「中務大輔」を世襲していたと見られ15世紀の半ばには数多くの庶流に分かれました。

  • 上杉四家

  •  室町時代に勢力を鎌倉に持った上杉氏は屋敷を鎌倉に構え四家に分かれました。四家とも鎌倉の地名を付して山内・犬懸・宅間・扇谷家と称し、関東管領家を世襲し一門で越後、上野、伊豆、武蔵などの守護職を務め有力守護として栄え、特に関東管領職(関東執事)は南北朝時代に上杉憲顕が関東管領として公方を補佐して以来、関東管領職は犬懸上杉氏と山内上杉氏が交互に務めましたが、1416年に犬懸家の上杉禅秀が起こした乱(上杉禅秀の乱)により没落、関東管領職は山内家が独占するようになりました。しかし、1454年に鎌倉公方 足利成氏が関東管領 上杉憲忠を殺害したことにより起こった乱(享徳の乱)に乗じて扇谷上杉氏と山内上杉氏の内紛で自ら家の衰退を作り出してしまったのです。

  • 越後上杉家

  •  山内上杉氏出身のまだ成人前であった上杉房方(上杉憲方の子)が越後守護職に就きました。越後上杉氏は房方から始まり、この人選には、父である憲方の影響ではないかとされています。(参考引用「上越市史」より)越後国には上杉氏の一族や長尾氏等の被官が各地に配置されました。一族では、上条上杉を称した上杉清方(憲方の末子、房方の弟)、三宝寺(三本寺)上杉を称した上杉重清(詫間上杉の流れを汲んだ上杉重兼の次男)そして、中でも支配がおよびにくい阿賀野川以北の地に上杉憲重(憲方の子、房方の弟)を配属させ山浦上杉家を作りました。後に山浦上杉家は勢力を拡大させ府内にある上杉氏に次ぐ第2の勢力となりました。






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